序の文

はじめて平井さんと会ったのは西日本最高峰の石鎚山の近くだった。仏教伝来のそのはるか昔から多くの巡礼や信仰を集める霊山。まだ夏の暑さが残る山間部を本業のロケハンのためレンタカーで走り回っていた。
旅行シーズンから外れた時期の周辺地域は閑散とし、人影もまばらになる。ひとたび幹線道路から外れると鬱蒼とした樹木に囲まれカーナビの電波も届かない。毛細血管のように入り組んだ細い林道が果てしなく続く。土地勘のない私は完全に道に迷っていた。行き止まりに陥り、汗をかきながら車を転回させていたその時に白髭の男性がフロンドガラス越しに忽然と現れた。

まるで以前からそこにいたかのような落ち着いた声で道案内をしてくれ、続いて「うちに来ますか」と声をかけられた。断る理由もなく自然な流れで男性についていった。眼下に蛇行する加茂川を見下ろしながらしばらく歩くと「和窯」と墨書された木の板が立てかけられていた。

 小道を下ると元はダム工事関係者の寮だったという平家の聴流荘が周囲を草木に覆われるようにひっそりと佇んでいた。庭先にはソメイヨシノの古木が重たそうな枝を垂らしている。建家前面には地域で採取された土を焼き上げた土鈴がいくつも並べられ柔らかで不思議な音色を響かせている。微妙に違う複数の音色に包み込まれると思わず耳を澄ませ、目を瞑りたくなる。目を開くと柔和な表情の白髭男性がジッとこちらを見ていた。この地で陶房「和窯」を構える漆芸家平井秀和その人だった。

 引き戸を開けると薄暗がりから長年作り溜めた作品が次々と視界に飛び込んでくる。説明をしてくれる平井さんの柔らかな声色もあまり耳に届かない。作品群は圧倒的な存在感と迫力を伴って眼前に迫ってくる。芸術作品に関しては門外漢の私であるが、これまで見たことはない、強烈な存在感を示す焼き物の数々。幾種類もの陶板に大小様々な皿、コップ、茶碗、急須の数々。アクセサリーなどの小品も細かな仕切りの箱に陳列されている。

 廊下を進んだ先の部屋には、見たことも触れたこともない直方体がいくつも陳列してあった。つるりとしたもの。ザラついているもの。質感も模様も色も全て違う。大きさも様々で素材も分からない。「箱」としか表現の仕様のない焼き物かがいくつも陳列されていた。

 平井さんは美術大学在籍時に陶芸と出会った。当時は従来の価値観が大きく揺らぎ安保闘争が各所で頻発していた時代。平井さんにとっては作陶するその瞬間だけが自分と向き合える自由で豊かな時間だった。元々は油絵専攻であったが、窯出しするまでどのような表情の作品が出来上がるか分からない陶芸の偶然性も大きな魅力に感じた。いつしか作陶にのめり込み、将来は陶芸中心の生活を送りたいと心に決めた。

 若い頃から平井さんは、原初のエネルギーに満ち溢れた縄文土器に魅せられていた。10000年以上続いたその期間に作られた土器類は、北は北海道から南は沖縄南西諸島など幅広く出土している。

 太古の昔に、誰がどのような想像力で作り上げたのか。どのような目的があったのかなどまだ不明なことが多い。象徴的な縄文土器として縄目などを装飾にしたものや深鉢型の火焔土器のような得体の知れない精気に満ちたものもある。

 縄文土器の持つ魅力に取り憑かれた平井さんは自ら当時の作りかたそのままにひと抱えほどもある土器も焼き上げている。そんな時期にある遺跡から出土した土器の破片の中で漆を塗られたものがあることを知り衝撃を受ける。その後、自身の作品にも漆を用いるようになった。

 素焼きの陶器に漆を用いる手法による作品は現代では「陶胎漆器」と呼ばれている。電動ろくろを使用せず手捻りで粘土を成形していく手法は縄文当時のままだ。

平井さんの手によって粘土の塊が次第に形となり、それらは焼かれ、素焼き状態の作品に繰り返し漆を塗られ磨かれていく。元々の土が作家の手によって時間をかけ形を変えられ、魂を与えられていく。漆を塗られた表面は単なる焼き物では表現できない不思議な質感を作品に与える。従来の陶器にはない独自の世界が生まれ、この世にただひとつの焼き物として今の時代においても原初の存在感を醸し出す。

陳列された陶箱は多くのヴァリエーションがある。外形も様々で、箔を置いたもの、漆の種類や回数を変えたもの、それぞれ違ってみんないい。時間の経過と共に酸化した表面はより深みのある色調へと変化していく。そして、焼き物であるのだが蓋がピッタリと閉まる。

 「箱」は何かを入れるもの。そして取り出すもの。何も入れなくてもいいし、入れるものは何でもいい。季節の品であっても自分にとって大切な何かでもいい。ただそこに在るだけで確かな存在感は何かを訴えかけてくる。
 生きていく上で必須ではないもの。明確な目的の定まらないもの。効率優先の現代においてそれらは無用のものかもしれない。それでも魅力を感じるのは原初の記憶が私たちの中に流れているからなのか、あるいは魂の郷愁のようなものであるのかもしれない。

 ひとつの出会いが確かなものを伴って次の何かにつながる感覚。そんなおぼろげだが確かな何かを伝えたい。できればぜひ手に取ってものから伝わる何かを感じてほしい。

 漆芸作家平井秀和氏の庵を機会あればぜひ訪ねてもらいたい。そして心地よい語りに身と精神を浸してほしい。そこにはきっと何かの発見があると思う。

野田 洋人